FF14のキャラの書き分けがよくできている話

これを書いている時の私は漆黒のヴィランズを進めている最中であるがFF14はしっかりキャラの書き分けができるいるなって実感したので今一度整理することにしてみた。

アラミゴ・ドマの住民とクリスタリウムの住民

クリスタリウムとユールモアで十分差がついているのだがどうせなら話が別の方が論じる意味があるであろうと思うので書くとする。
アラミゴ・ドマもとい紅蓮の物語のキーとなるのは民衆が立ち上がることである。光の戦士であり、英雄でもある主人公は民衆が立ち上がることにおいては無力である。立ち上がるためにになったのはヒエン、リセというのが流れである。
過去の記事でも書いているが紅蓮の物語はあくまでも独立をするということが大切であり、ゼノスを倒すことが目的ではない。勿論独立するための邪魔になるならば戦うがゼノスを倒しても解決しないということである。
民衆が立ち上がるための物語を作るためには当然のことながら民衆は屈服した状態でなくてはならない。そのための役割を果たしているのがヨツユやフォルドラである。それぞれ役割としては近いものであるがうまくその後の顛末で差別化できたのもよかった。
民衆を折れて何もできない状態から始まり立ち上がることが紅蓮の物語とするならばそもそも何もできないを通り越して絶滅、滅亡となっているのが漆黒および第一世界である。
第一世界のクリスタリウムは町のそこらに生きるため、跡を残す為と必死になっているのが分かる。牧場、図書館などとさまざまな生産施設と記録施設を詰め込まれて成り立っているこの都市は生きるための街である(すごくオシャレだけど)
そこに生きている住民も当然のことながら生きるためにある。クリスタリウムに住むという提案するときも働いて対価を得ることを話す。(正直あの終末世界において働いて対価が出るって相当いい環境に思えるが)ミンフィリア奪還をするときもすぐに立ち上がる。ここに住む人は立ち上がるための物語は必要ないのだ。
この違いはとても大きい。そしてしっかりと描かれている。この信頼感が本当にたまらない。

貴族の物語になっている蒼天

正直なところFF14の物語に立っている視点は蒼天から貴族→属州の民衆→滅亡寸前の世界の住民とどんどん切羽詰まったものになっていると思う。
蒼天で出てくる登場人物はほとんどが貴族である。ヒルダはいるが正直言って貧しい民衆としての側面はそこまで推されていない。
勿論私はメインを主に進めてサブをやっていないのでそこでの補完はあるだろうけども少なくともメインにおいては貴族がほとんどの登場人物を占めている。彼らは基本的には余裕があるのだ。ただ、教皇に立ちはだかるのでその余裕がなくなるわけになるがしかし生まれからで言えば余裕があるのだ。その余裕があるからこそ蒼天の登場人物は成熟している。大人びている。
蒼天は人対ドラゴンを主として描いている。だからこそ、人は大人びているキャラで未熟さで引っ張る必要がそこまでない。
ただ、パッチのストーリーでは戦後の変化を描くために少し民衆が出ることになった。それでもかなり薄められている。その判断は間違っていないと思う。蒼天は貴族の物語なのだから。この頃には紅蓮も考えられているだろうし、民衆を主として描くそちらのことを考えればサクッとするのはいいと思った。
同様に共和制に移行したのもサラッと流したのも好きである。FF14はとにかく丁寧で何かとしっかり理屈つけて描写してくれるがメリハリをつけることもできているのも良い。
漆黒のヴィランズもまだ序盤なのでここら辺までにして完結したらまた掘り下げたいなと思います。
読んでくれてありがとうございました。